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憧れ

 姉はいつだって私の憧れだった。

 家に帰るのが年々遅くなる姉が、高校に入り髪を黄金色にすれば、中学生の私は室内ではバレない程度の栗色に染め、姉が美大に入り上京してからは、私も過保護な母から離れられる、東京の私大を第一志望にした。私は姉の背中を、自分のできる範囲で追いかけていた。それなのに、姉と私の差は近づけば近づくほど、時間が経てば経つほど、大きく開いていくように感じられてやるせない。

 母は私に何かを期待しているようで、姉に対しての感情は放任しているというより、得体の知れない何かに怯えているようにも見えた。

 よく母は、

「あの子は何の感情もない子よ」
と姉について話したが、姉は感情がないように見せるのが得意なだけで、内なる導火線に火をつけるタイミングを見計らっているだけなのだ。姉はレールから放り出されても、自分で道を作り出す人間で、私はレールから降りて、レールのすぐ隣を道なりに歩くような人間だったから、母は私の方が、都合が良かったのだと思う。私はそれをよくわかっていた。

 大学生になり、母の反対を押し切って姉と一緒に住むようになった。母の、私たちに対する態度は平等とは言えなかったが、姉はその理不尽さに腹を立て、私を憎むようなことはしなかった。いつも行動を共にしたし、時折乱暴な言葉を使うものの、私を見る目は優しかった。人は誰しも、自分を慕い、愛してくれる存在を無下にはできないものなのだ。
 
 姉はいつも夜が深まった頃、ほろ苦い煙草の香りを漂わせて帰って来る。普段は顔をしかめてしまう苦い香りも、姉とまざりあえば子供を突き放すような芳醇な香りと変わるのが、その時の私は不思議でならなかった。
 姉は毎日ベランダで白く濁った煙を暗闇に吐き出し、いつもは手に持って離さない携帯もどこか遠くに放ってしまって、見えない何かと対話しているようにも見えた。

 私はいつも姉に追いつきたくて、母に咎められない程度に姉を模倣し続けていたが、煙草だけは「吸うな」と姉が私を咎めた。
「どうして?」と聞くと、
「煙草は杖にも、足かせにもなるから、怪我もしてないあんたが吸ったって、毒にも蜜にもならないの」と姉は極端な比喩を使って私を諭した。
 仕方なく私は、ベランダで煙草を吸う姉の横で、夜の紺色の中、漂う白に羨望と表裏一体の敵対心を持って存在していた。それに反撃するかのように、私の顔に覆い被さる煙が目にしみる。そうして瞬きが増える私を見て、姉は一層優しく微笑むのだ。 

 そんな姉が今日、煙草をやめた。

 その日も終電がなくなるギリギリの時間帯に帰ってきた姉は、アルコールの匂いをただよわせ、無言で部屋にあった煙草もライターも、ついでに溜まった水道の料金明細も、ぐしゃぐしゃとまとめてゴミ箱に押し込んだ。
「どうしたの?」
 私が突然のことに驚いて尋ねると、姉は突然無心だった顔を歪めて、喉の奥から声を出して泣いた。
「全然、全然追いつけない」
 そう言ってしゃがみこむ姉には、心から慕う人がいて、その人がある種の人間にしか得ることのできない、芸術的な才能を秘めていることを私は知っていた。姉が慕うその人の視界に、姉が微塵たりとも入っていないことも知っていた。その人は煙草をよく吸う人で、この夏から遠い国へと旅立ってしまい、本当に手の届かない人になったのだけれど。
 その人の写真を私は一度見たことがある。姉にとても似ていて、いやに綺麗だった。姉は、あの人の跡を辿ればあの人になれるとさえ思っていた気がする。あの人を模倣することで始まった憧れは、自分の空虚さに気付くための非情な痕跡になり得ることを、姉も私も知らなかったのだ。
 咽び泣く姉の手を後ろから握り、あやすように自分の頬を背中に当てる。丸まって震える姉の背中に、まだあの煙草の香りが染み付いて消えない。
 
 姉がぐっすり寝てしまった後、私は姉が朝起きて後悔するのではないか、とゴミ箱の中からライターと煙草を取り出した。箱の中にはまだ数本残っていて、それを見た私は突然吸ってみたいという衝動に駆られた。抜足でベランダにでて箱から取り出した一本を、姉がいつもしているように軽く咥えた。ライターをカチカチと何度もこすりやっと火がつくと、それを左手で包み込み、ゆっくり煙草に近づける。顔がほんのり温かくて、先端に火が灯ったのがわかる。思い切って吸ってみると、案外うまく吸えた。漫画や小説の中の女の子のようにむせたりはしなかった。私はもう一度タバコを吸った。フーッと吐く息と一緒に出る、姉より少量の白い煙が空に漂うようすを見て、これの何が美味しいんだろうと思わず首を傾げた。それでも一本吸いきってしまうと、私は姉のことを理解したような気になって心底恐ろしかった。姉の悔しさに共感している自分の感情が心底恐ろしかった。

 ああ、そうか。他人のことなんて理解できるはずがないのに、私たちの憧れのレンズは白い煙で滲んで、まるで効力を成さない。


ペンネーム:キレ気味ちゃん (@kiregimichan_77)

photo by (@thefool1225)
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